2011.07.06
「父との思い出」
入院している父が ついに人工透析になりました。
姉曰く 父は「病気のデパート」
けれど 常に病気を乗り越えて今86歳。
常にミラクルで乗り越えてこられたのは
他でもない
丈夫で朗らかで男並みにバリバリ働いて
パワーのある強運の母がいつもそばで尽してきたからだと
しみじみと思うのです。
今回 しみじみと父が
母に ベッドの上でかしこまって
「お母さんの福をもらってこうして生きてこれました。ありがとう。」と
頭を下げたと 母が話してくれました。
母を伴侶として射止めたこと
それが父の 最大の才能であり 何よりの幸せだったのではと私は思っています。
私自身 どんなつらいことがあっても
母がいてくれることが最大の幸せだと思っていますから。
根拠のない自信というものが私にあるのは
母の愛情のあと押しで、
私はそれだけでも 人生十分満足しています。
私の父は 昔は大変厳しい人で
スキンシップもなく
甘えさせてもくれず
いつも私は 父親の機嫌を伺いながら
ビクビクしていました。
御飯も父がいなければ食べれなかったし
お風呂も父が入らなければ入ることができなかった。
父が間違ったことを言っているな、と思っても
黙って聴いて「はい。わかりました」と返事をし、
逆らったり歯向かうことなど一度もなかったと思っています。
父から逃れられない人生を嘆いた思春期。
けれど そんな父が
今は 小さな大仏様みたいな 穏やかな表情になって
私を見て喜んでくれる。
父に愛されてきたことを実感しますし
感謝しています。
厳しい父でしたが
私がやりたいこと
大事な人生のイベントには
力を貸してくれる父がいたこと
それは本当に大きいことでした。
初めて行った野口五郎さんのコンサートのことは先日書きましたが
もうひとつあったこと 最近懐かしく思い出しました。
http://norieroom.blog121.fc2.com/blog-entry-208.html
1979年だったでしょうか。
今もありますが ホリプロスカウトキャラバンというのがあり
応募したら 一時通過で 二次予選というものが広島のテレビ局である、とのこと。
車酔いでこの町から出られないとはわかっているのだけれど
そういう世界も 少しでいいから覗いてみたい。
野口五郎さんのコンサートのとき以来ですが
父にお願いしてみたら OKがでました。
どうしてこうも鮮明に覚えているのかというと
私が父と出かけた記憶は
五郎さんの初めてのコンサートと
この広島のオーディションの2回しかなかった、という「事実」からです。
父が新幹線の駅までバイクに乗せて行ってくれて
それから新幹線に乗って一緒に広島に。
放送局まで着くと
また終わる頃に前で待っているからということで
私はオーディションに。
今思うと オーディションというものは初めてでしたけれど
あのドキドキはまた 「一生もの」、って感じがするもので
あの時は私は「狼なんかこわくない」を歌ったのですが
まぁ 選曲ミス、ということもあると思うけれど
普通の田舎の娘で 通るわけもなかったのですが
本当に貴重な楽しい経験で とてもいい思い出です。
けれど その後
外に出ても父がいない。
待っても待っても父が来ない。
お金も一銭も持ってないし
どうしていいのかわからない。
なにしろ これまで自分の住んでいる田舎から
一人で出たこともないのに
こんな都会の広島から いったい私はどうやって
山口の田舎に帰ればいいのだろう。
もうダメだ ありえないほど惨めすぎる。
局の方に電話をお借りして
母に 父とはぐれてしまった、
お金も持っていないと
半べそ状態で電話したけれど
母もどうすることもできず
ただただ呆然。
けれど 途方にくれて 困っている私に
忘れもしないのですが
RCC放送の 世羅さんとおっしゃる 役職に就かれた方が
私に 一万円を貸してくださって
「これで帰りなさい」と励ましてくださいました。
あの時は 本当に救われた思いで
こんな親切な方が世の中にいらっしゃるということに
涙が出るほど感動しました。
今でも できることならお礼が言いたいくらい感謝しています。
諦めて ひとりで新幹線に乗ろうと駅に着いたその時・・・
駅に父の姿が!!!
これほど父を見てうれしかったことはなかった。
こんなに父を見て喜んだのは初めてだ。
なんとか父と無事に帰れて
世羅さんには母よりお金を送ってもらいましたけれど
あの夏の思い出は なんともほろ苦く
うれしいような かなしいような
泣きたいような
大笑いしたいような・・
不思議な感覚で残っていて
懐かしく思い出されます。
「お父さんいったい何処に行ってたの!!」(泣)
・・・って、
言いたかったけれど こわくて言えなくて
未だにあの時
父がどこに行っていたか知らないままですが
父が私のやりたいことを
させてくれた記憶は
やっぱり どうしようもなく
うれしくて
楽しくて
大事にしたい思い出です。
ふと今
書き残しておきたいと思いました。
姉曰く 父は「病気のデパート」
けれど 常に病気を乗り越えて今86歳。
常にミラクルで乗り越えてこられたのは
他でもない
丈夫で朗らかで男並みにバリバリ働いて
パワーのある強運の母がいつもそばで尽してきたからだと
しみじみと思うのです。
今回 しみじみと父が
母に ベッドの上でかしこまって
「お母さんの福をもらってこうして生きてこれました。ありがとう。」と
頭を下げたと 母が話してくれました。
母を伴侶として射止めたこと
それが父の 最大の才能であり 何よりの幸せだったのではと私は思っています。
私自身 どんなつらいことがあっても
母がいてくれることが最大の幸せだと思っていますから。
根拠のない自信というものが私にあるのは
母の愛情のあと押しで、
私はそれだけでも 人生十分満足しています。
私の父は 昔は大変厳しい人で
スキンシップもなく
甘えさせてもくれず
いつも私は 父親の機嫌を伺いながら
ビクビクしていました。
御飯も父がいなければ食べれなかったし
お風呂も父が入らなければ入ることができなかった。
父が間違ったことを言っているな、と思っても
黙って聴いて「はい。わかりました」と返事をし、
逆らったり歯向かうことなど一度もなかったと思っています。
父から逃れられない人生を嘆いた思春期。
けれど そんな父が
今は 小さな大仏様みたいな 穏やかな表情になって
私を見て喜んでくれる。
父に愛されてきたことを実感しますし
感謝しています。
厳しい父でしたが
私がやりたいこと
大事な人生のイベントには
力を貸してくれる父がいたこと
それは本当に大きいことでした。
初めて行った野口五郎さんのコンサートのことは先日書きましたが
もうひとつあったこと 最近懐かしく思い出しました。
http://norieroom.blog121.fc2.com/blog-entry-208.html
1979年だったでしょうか。
今もありますが ホリプロスカウトキャラバンというのがあり
応募したら 一時通過で 二次予選というものが広島のテレビ局である、とのこと。
車酔いでこの町から出られないとはわかっているのだけれど
そういう世界も 少しでいいから覗いてみたい。
野口五郎さんのコンサートのとき以来ですが
父にお願いしてみたら OKがでました。
どうしてこうも鮮明に覚えているのかというと
私が父と出かけた記憶は
五郎さんの初めてのコンサートと
この広島のオーディションの2回しかなかった、という「事実」からです。
父が新幹線の駅までバイクに乗せて行ってくれて
それから新幹線に乗って一緒に広島に。
放送局まで着くと
また終わる頃に前で待っているからということで
私はオーディションに。
今思うと オーディションというものは初めてでしたけれど
あのドキドキはまた 「一生もの」、って感じがするもので
あの時は私は「狼なんかこわくない」を歌ったのですが
まぁ 選曲ミス、ということもあると思うけれど
普通の田舎の娘で 通るわけもなかったのですが
本当に貴重な楽しい経験で とてもいい思い出です。
けれど その後
外に出ても父がいない。
待っても待っても父が来ない。
お金も一銭も持ってないし
どうしていいのかわからない。
なにしろ これまで自分の住んでいる田舎から
一人で出たこともないのに
こんな都会の広島から いったい私はどうやって
山口の田舎に帰ればいいのだろう。
もうダメだ ありえないほど惨めすぎる。
局の方に電話をお借りして
母に 父とはぐれてしまった、
お金も持っていないと
半べそ状態で電話したけれど
母もどうすることもできず
ただただ呆然。
けれど 途方にくれて 困っている私に
忘れもしないのですが
RCC放送の 世羅さんとおっしゃる 役職に就かれた方が
私に 一万円を貸してくださって
「これで帰りなさい」と励ましてくださいました。
あの時は 本当に救われた思いで
こんな親切な方が世の中にいらっしゃるということに
涙が出るほど感動しました。
今でも できることならお礼が言いたいくらい感謝しています。
諦めて ひとりで新幹線に乗ろうと駅に着いたその時・・・
駅に父の姿が!!!
これほど父を見てうれしかったことはなかった。
こんなに父を見て喜んだのは初めてだ。
なんとか父と無事に帰れて
世羅さんには母よりお金を送ってもらいましたけれど
あの夏の思い出は なんともほろ苦く
うれしいような かなしいような
泣きたいような
大笑いしたいような・・
不思議な感覚で残っていて
懐かしく思い出されます。
「お父さんいったい何処に行ってたの!!」(泣)
・・・って、
言いたかったけれど こわくて言えなくて
未だにあの時
父がどこに行っていたか知らないままですが
父が私のやりたいことを
させてくれた記憶は
やっぱり どうしようもなく
うれしくて
楽しくて
大事にしたい思い出です。
ふと今
書き残しておきたいと思いました。
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